『エドガルド・モルターラ誘拐事件』(デヴィッド・I・カーツァー)

デヴィッド・I・カーツァー『エドガルド・モルターラ誘拐事件』(漆原敦子訳、早川書房、2018年)を読みました。

映画化するんですね...

1858年、教皇領だったボローニャで6歳のユダヤ人少年エドガルド・モルターラが当局によって突然連れ去られます。理由は家族の知らないところで洗礼を受けていたから。洗礼を受けてキリスト教徒になると、ユダヤ人家庭のもとでは暮らせない定めでした。悲しむ家族や知人たちはローマを始め各地のユダヤ人社会と連携してエドガルドを取り戻そうと試みます。折しもリソルジメントを進めようとしていた自由主義者たちが注目、旧体制=教会への批判として事件を取り上げ、大西洋の両岸を巻き込んで国際的なうねりとなっていきます。本書はその一部始終を描いたノンフィクションです。

「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、まさに実話でありながら小説を読むように面白い本です。家族の嘆きや周囲の行動を微細な点まで描けているのは史料がよく残っている証でもあり、それだけ注目度の高い事件であったといえるでしょう。また自由主義者による批判攻勢とそれに対抗するカトリック側ジャーナリズムの反宣伝からは現在では想像もつかない当時の対立の激しさが見て取れます。

しかし決してハッピーエンドで終わらないのも読後感を複雑なものにしています。事件を利用した自由主義陣営はイタリア統一を最終的に成し遂げますが、当事者の家族にとっては幸せな結末にはなりませんでした。そのことは終盤で(やや本筋とは無関係に)出てくる家族が後年巻き込まれたある事件からもうかがえます。ある運動の中で本人・家族・支援者各々のずれが大きくなり、当事者にとっては必ずしも良い結果に終わらない例は今日でも見受けられるように思います。

ところで著者はこの事件がリソルジメントの進展に寄与したことを強調していますが、以前にも同様の例がいくつもありながらこの事件の扱いが大きくなったことを考えると、逆にリソルジメントへの機運が高揚していた時代背景が事件解決に寄与したとも考えられ、せいぜい相互的な影響があったとみるのが妥当な感じがします。